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演奏会・舞台 Archive

モザイク四重奏団@王子ホール

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来日情報を知ったのは、一週間ほど前だったでしょうか。仕事の合間(ヒマで)にのぞいたホールのHPからでした。当然のごとく完売。ダメもとで当日券狙いしかありません。
しかし、そんな大事な(?)時にかぎって突発事件が起きるのです。今回は母の病院付添いです。診察が終わったのが9時50分。よし。
ぴったり10時に電話がつながって席をゲット!しました。

楽屋で音合わせをしてきたのでしょうけれど、着席するやいなやいきなりハイドンの35番が始まったのでちょっとびっくりしてしまいました。初期の名曲です。
第三楽章の出だし。音がフワッと軽く薫ってきた時に、なにか脳内が修復されたようなそんな無意識下の「快」が意識に上ってきました。あ〜来てよかった。

ハイドンで満足していたら、その次のメンデルスゾーンバルトルディの1番。これにはノックアウトされました。この楽団の真骨頂はこのあたりにあったのですね。緩急起伏が彼らの美意識というか腕前というか特質というか、とにかくそういうものにぴったりなのです。
一応ピリオド系の楽団に分類されていますが、弦とか弓はモダンな感じがしましたが、どうなんでしょうか。

休憩を挟んだシューベルトの13番「ロザムンデ」はちょっと退屈。
これは小生とシューベルト君との相性のせいもありますが、隣のまじめな大学生風のおにーさんは爆睡でした。それはともかく。どうせならベートーベンをやって欲しかった。まあでも、モーツアルトを入れなかったのは懸命な選曲だと思います。

アンコールはハイドンの66番第三楽章。つまり11月に発売のCD集のプロモーション、なのですが何とも言えない安堵感。
こういう脳を修復してくれる演奏会に、もっと足を運ばなければなりませんね。

余談ですが、小生の前の席のおねーさんがやたら化粧品臭いというか香水なのでしょうか、強い薫りを放っていて、場所柄「どこのママ?」とか思っていたのですが、彼女の隣の男の人と交わしていた名刺には、(有名バイオリニストの)M橋T子と書かれてありました。
小生の視力は両眼視だと1.5以上あるはずなのですが、このできごとで二メートルは離れていた名刺の文字がくっきり見えたので、老眼鏡にはまだ当分間があるぞと確信しました。

国立劇場文楽(第二部)

このところ不祥事と訃報に見舞われている文楽ですが、この先だいじょうぶでしょうか...。今日は楽屋口のおもてを険しい表情で歩いている新大夫を見ましたが、彼はどういう立場なんでしょうね、いま。

1、二人禿
なんだかよくわからないまま、あっというまに終わりました。大夫陣がよくなかったのだと思います。風情がない。

2、鶊山姫捨松〜中将姫雪責の段
高級身分の女同士のイジメの趣向は鏡山に似てますね。名題も鶊山(ひばりやま)だし。ただ虐待っぷりはこちらが具体的。
ここはなんといっても嶋大夫と三味線の宗助コンビの迫真の床を堪能しましょう。宗助はおすすめです。
雪の振らせ方がなかなかじょうずで妙に関心。

3、壺坂観音霊験記
わかりやす〜い出し物です。江戸期には人間社会の複雑な成り行きが描かれているのに対して、明治のこの出し物は霊験譚として問題があっさり解決してしまうのはなぜでしょう。
住大夫はまだ4日目なので声も枯れずに余裕でした。公演後半になるとちょっとね。老体ですから元気なうちに見ておかないと。
山の段の伊達大夫の休演はなんとしても残念。病気ですか?この人がいなくなるとほんと文楽がさびしくなるので、激しく復活希望です。
代演の千歳大夫はいいんですが、若いのでなんというかストレートさが聴いててちょっと疲れますね。
終盤。岩山の自動ドアが開くと、ありがたいことにマリア様のような観音様がお出ましになりました。もともとインドの神様ですから薄いヴェールを被っていてもいいんですが...。

文楽の前にぶらっと入ったお店で安売りをしていたので、またしても浪費。
▲J.ハイドン『十字架上のキリストの七つの言葉』(ジョルディ・サバール)AVSA98546750
▲J.ヴェルフル『交響曲集』CM002-2005
▲A.ロゼッティ『ボヘミアの暴れん坊(?)』CM001-2005
▲G.エネスコ他『民族風に(?)』(パトリック・ビスミュト)ZZT010801.2
▲『La Voce Violino』(エンリコ・オノフリ)ZZT071102
▲テレマン『リコーダー作品集』PA0002
▲M.ハイドン『聖ヒエロニムスのミサ』AMY011
▲『フルート作品集(4枚セット)』(エマニュエル・パユ)naïve

歌舞伎座〜夜の部

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「あ〜、歌舞伎みたなあ。」と思える夜の部でした。三階最前列ちょっと上手より。(工藤、義経、獅子がいるちょうど正面)

1、寿曽我対面
三津五郎の曽我五郎いいです。絶賛を浴びた襲名興行のときそのままです。動きもセリフも声もきっちりしていて、スカッ!と気持いい。十郎のハッシーは期待していなかったものの、姿はまことによろしくてびっくり。しかしやっぱり声に難。
祝祭劇としてとかくおおらかにかたちを整えて終りがちな舞台が、工藤が富十郎だったことで、五郎の勢いをそのまま跳ね返すような凄烈なものを発していたのが正解。で、なぜか白ずくめの工藤ですが、これは病気?それとも幽霊的なものの表示?
大磯の虎の芝雀は正しく存在していてよかった。化粧坂少将の孝太郎は論外。

2、白鸚追善口上
幸四郎、雀右衛門、吉右衛門、染五郎、松緑。たった五人の、さみしくも心温まる口上幕。これは幸四郎の意図でしょうかね。

3、熊谷陣屋
内容よりも芝翫の相模に非常に関心した。この人はこういうところにハマるとほんとに舞台が良くなるんだな、と。
それから段四郎の弥陀六。人生の奥行きに思いを致させるじつに内容のある弥陀六で、これは文楽では味わえない。藤の方の魁春も義経の梅玉も正解で、『陣屋』にふさわしい豪華さ。
しかしですね。時間が進むとともに、なんというか熊谷直実の気弱な人生悲劇というかそんな感じが漂ってきてしまったのはどういうわけでしょう。中間管理職としてまじめに勤め、家庭でもやさしい父親である直実君。あっちを立てこっちに気をつかっているうちに、とうとう我が子を手にかけることに...。それで済むかと思いきや、女どもが陣中にのこのこやってきてしまったために、めんどうな場面設定になってしまい、もうなにもかもいやだになって出家。と、そんな皮肉な構図に見えてしまったのです。
その点、弥陀六は老いて身をやつしながらも平氏としての意気地を貫き通しているわけで、壮年でポッキリ折れてしまった直実君よりもずっとずっとしたたかです。

4、春興鏡獅子
本舞台では初めてだそうです。苦労だったでしょう染五郎。“たいへんよく毛を振ったで賞”を進呈します。
しかたがないことですが、問題はやはり“弥生”の部です。踊りはできる人だし、器用ですから、整った感じにはなっていました。その分、ダシがきいてない感があったのも事実です。あまり踊るとオトコになってしまうので調整したのでしょうか。しかし、見物するほうとしては、踊りというものは十あるのなら十、百あるのなら百踊ってほしいのです。その点、胡蝶のほうに関心してしまったのは残念。
それこそ「高麗屋から弥生を踊る役者が出たか」(by白鸚)と、今の見物にも言われるようになって欲しいものです。

歌舞伎座〜昼の部

年末恒例の歌舞伎見物。
かなり気合いを入れて二階まんなからへん三列目。しかし、う〜ん・・・・あんまし書くことないかな。

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1、鎌倉三代記(絹川村閑居の場)
半ばまでなにをやっているのか伝わらなかったです。特にハッシー(橋之助)が妙な声で存在感がなくて、ほんとに手負いの若武者ですか?
時姫は「三姫」とかいわれて大役とされていますが、それって“なにもしない&できないお嬢様にしては”しどころがある役という意味ですよね、ということが確認できました。だったら福助でもいいか・・・
ついでに老母役の秀調が芝居を破壊していました。まるで「8時だよ全員集合」に出てきそうです。障子が開くのが一回だけだったのはせめてもの救いです。
で、ちょうど折り返しになぜか登場する二人の局。鐵之助と歌江。こういう老練な脇の人が出てくると、にわかに時代の空気がかもされてきて安堵。
後半は高綱役の三津五郎がダントツ。いつものぶっかえりではなくて、井戸から仁王襷で出てくる。なかなか大きくてよろしかったのでは。
フツーに様式美を見た一幕でした。

2、信濃路紅葉鬼揃
つまり「紅葉狩」なのですが・・・
まず舞台が松羽目(破風付)で、ガカーリ。さらに、踊り(セリフも衣装も)が“能風味”なのはあまりにも中途半端で困ります、そういうことをされては。
侍女までも鬼女化してしまうのは、うざったいけど(沢瀉屋チームの雇用対策として)まあ許すとしても、これでは宝塚を見た方がまだ気楽に楽しめます。
玉三郎が鬼女というよりほぼ化け猫だったのは顔が小さいからいたしかたなし?そして演出によって声の悪さが一層強調される結果になってしまいますた....orz
海老蔵はただ存在していたただけ。
山神の勘太郎の元気な踊りがさわやか。というかここだけ普通。

3、水天宮利生深川(筆屋幸兵衛)
没落士族の悲劇の一コマを描いた黙阿弥もの。
ただですね。初演の明治の頃には訴求力があったでしょうが、今となっては、役者の芸をみるだけのものになっているんですね。独特の黙阿弥の空気を味わえといっても、現代の見物人にはそれとのチャンネルがないですから、現代風の役者が多々まざっていても、そのまま受け取るしかないわけです。
本質的に最初からほぼ最後まで救いのない暗い芝居です。幕切れにしたって、結局は施しを受けて終わるわけですから。
勘三郎のような芝居がじょうずで愛嬌が出るひとじゃないと見ていられないです。ハピーエンド風にはなっていますが、気分がやや落ち込んでしまいました。

攝州合邦辻(国立劇場/平成19年11月)

めずらしい通し上演。気合いを入れて二階6列目まんなからへん。
坂田藤十郎の玉手御前は東京でははじめてとのこと。藤十郎親子と松島屋の関西系に三津五郎が客演の形。

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合邦庵室までの三幕は筋を運ぶだけのものになっている中、羽曳野の秀太郎が良い。この人がいると舞台が手堅くなるし、小生の好きな役者の一人である。三津五郎の俊徳丸はしどころがないが、はまり役。
二幕目までの玉手御前は、どうしても太く見えてしまうので、とても二十代のオンナには見えず、ちょっと危惧。(あまりその必要もないかもしれないが...)

ところが。合邦庵室の場になると、演技がすべてを圧倒してしまう。全部の姿が美しく計算されてしかも濃厚な味。糸に乗った演技も極って、これなら、なるほど人形ではない生身の人間で上演する意味が実感できる。
戸口での「かかさん。かかさん。ここあけて。」のセリフ。小生のなかでは、ここがすべてを決定すると見ている関門であるが、これは素敵にできていた。その後、親に意見されてジッとしている姿。表情をかえずになにもせずとも、「すがた」が常になにかを放射している。へえ、藤十郎にはこれがあったのか・・・。
我當が元気なさげなのが気になったが、あとは見物をきっちりドラマの世界に引き込んでいってくれた。

休日なのに席は6〜7割がた。木戸銭分見た気になれるのに、これはちょっともったいないなあ。

ぶらっと

芝居見物に国立劇場へ。二階中央やや奥の席。

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「俊寛」と、珍しい出し物「うぐいす塚」。高麗屋親子と芝雀。
俊寛ってなにがいいんだろ、やたらジタバタわめいたりするだけ〜?と思っていたのだが、今回は最後まで見れました。
考えると俊寛は流罪になった時点で、すでに社会的に死んでいるわけですね。ここで赦免かなったとしても、短い余生をつましく妻と暮らして行くしかない。またそれを喜びとして生きなくてはならない。ところがその妻は咎なくして斬首されたという。そこで、俊寛が俊寛的、じゃなくて瞬間的に選びとった道が生命の死への短路だったというわけです。しかし、選択は決断とはいいがたく、執着と諦念のさかい目で引き裂かれんとする人間の普遍の姿がここにある。
・・・と、そんなこざかしい補いをしたりするとまあ見ていられる芝居なわけでした。

「うぐいす塚」は染五郎がひっぱりだしてきたものだそうで、期待していなかったものの、肩のこらない(その場かぎりでは)楽しめる舞台。乞食をみそめた金持ちのお嬢さんが恋わずらいをして寝間にいるところなんぞ、ほんと読本(よみほん)の挿絵そのものといった風情で、ちょっとジワが来てましたね。幕ごとにちゃんとおもしろい場がこしらえてあって、客に親切な染高麗でした。逆にいうと、こういうのは「やる気」のある役者がやらないと、愚作でかたづけられてしまうどうしようもないものなんですわ。
芝雀のつとめぶりがきちんとしていて好感。
というわけで、木戸銭分きっちり見た感じがした一日でした。

国立劇場文楽(菅原)

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夜は国立小劇場文楽へ。「菅原」の初段と二段目。
舞台で実際みるのははじめてなのだが、なるほど良く作劇されていると思う。いくつかの伏線が次々に事柄を生み出していく様子がよくわかった。
今回のききものは「筆法伝授」の嶋大夫と宗助、それから「杖折檻」の津駒大夫と寛治。まず三味線の音が非常にきれい。これは当然といえば当然だが、いま、他の床では聴けない。語りもよくわかり、このふたつの段は目をつむっていても十分心に入る。
この日の難は「丞相名残の段」。これはもう勘弁してほしい。玉男の衣鉢を継ぐ玉女の気合いの入れ具合はよくわかったが、肝心の大夫が語りがだらだら伸びてしまってるし、ただでさえ動きの少ない舞台面。その舞台のほうもおじいさんばっかり、ともう見物のほうが困ってしまう。
はじまるまえに番附を見て、「東天紅」までで十分?と一瞬思ったのが正解だったかもしれない。

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